第5回 獲るべくして獲った金メダル 荒川静香の“勝利の方程式” ショートプラグラム終了時点で勝負は決まっていた!?【岸本剛/フォート・キシモト】  荒川静香選手が、ついに氷の女王になった。水色とコバルトブルーのコスチュームも1番高い表彰台には、ふさわしく感じられた。  優雅に堂々と成熟した女性が、すべてを制した雰囲気は、すばらしかった。  フリー演技に向かうまで、3人の選手が横一線に並んだ。  サーシャ・コーエン(アメリカ)、イリーナ・スルツカヤ(ロシア)と荒川、3人の点差は「1」もなかった。  ひしめき合う中で、荒川はみごとなまでに自分のスケーティングを披露した。  演技時間の4分間にみせた精神力、技の習熟、加えて集中力は、とびきりのレベルだった。  だが、もし、フリー演技の始まる24時間前に時計を巻き戻したとしても、荒川選手の金メダルはゆるがなかったと思われる。  もちろん、試合の本番では何が起きるか分からない。  コーエンが2度もジャンプを失敗し、あのスルツカヤまでが転倒するなど、誰が予測しただろう。  しかしそれらの転倒が無く、コーエンもスルツカヤも完璧な演技をみせたとしても、トリノの栄冠は荒川選手のものであったはずだ。  つまり、フリー演技を技の構成通りに3人が3人ともパーフェクトに滑ったとすると、   コーエン   61.5点   スルツカヤ  60.0点   荒川     64.6点  これらにショートプログラム(SP)の得点をプラスしても、コーエンから0.71点差の3位に位置していた荒川は逆転していたのである。  これは2年前から採用された新採点方式ゆえの計算だから成り立つ予測だ。  現在の採点では、3回転フリップは5.5、背中をそらしたスピン2.4など、カフェテリアでトレーの上に料理を乗せて並んだときと同じような加算方式なのだ。  だからこそ荒川の心は、自由にのびのび滑れれば、メダルは後からついてくるという平常心で、フリーの演技に向かえた。  さらに想像すると、フリーの演技の前に自分がベストな滑りをみせても勝てないという思いが、コーエン、スルツカヤに異状な精神状態を引き起したことも考えられる。  滑走順は、コーエン、荒川、村主章枝、スルツカヤだった。  まず、前々日のSPとは別人のように、ガチガチに緊張したコーエンが登場し、2回大きく転倒。転倒がマイナスされて55.22点にしかならなかった。  演技の直前、目の前でコーエンが金メダルから後退したことは、荒川選手の気を楽にした。自分の演技にだけ集中すればいいという、静かな闘志だけをみなぎらせた。さて、本番。  荒川はコンビネーションジャンプで、3回転→3回転が3回転→2回転になったというところはあったものの、62.32という高得点をたたき出した。  そしていよいよ真打ち、スルツカヤ。  ラストでどんな貫録のある演技を披露するのかと、観客は一段と大きな歓声をあげた。  しかし彼女は、自分がどんなにパーフェクトに滑ろうとも、自分の持ち演技メニューでは荒川に届かないことを承知していたうえに、直前の荒川が62点台の高得点を出したことで二重の金縛り状態に陥った。 「どうあがいても金メダルは無い」そう思う諦念と失望感がスルツカヤ自身に悪夢のような転倒を呼んだ。結果は53.87だった。  ここ大一番で“いつものように滑れば金メダルがついてくる”という思いと、いつも通りでは、もうすでに金メダルはないという心のポジションでは、演技に向かううえで天と地ほどの開きになったろう。  金メダル獲得後のインタビューで、荒川選手は「このメダルは、1人で獲ったのではない。私のことを応援して、助けてくれている人すべてで獲ったのだと思う」と言った。  その実感は正しい。  昨年11月の中国杯での荒川の得点は伸びなかった。そこでプログラムメニューを大幅に変更した。  どうすれば点数が獲得できるかが徹底研究された。それは新採点方式になったからこそ可能だった。  現在の試合の採点は過去のものと違い、それぞれのパートにプロの目が配置された。  ジャンプの正確さをみる人。スピン、ステップの正確さに点数をつけるジャッジ。つまりトレーの中に“形の良いプリン”をみつければ300円とカウントするのと同じ。  だからトレーの中に金メダル獲得への完全メニューを備えていた荒川選手は、演技をする前から勝っていたといえる。  加えてフィギュア選手としては166cmという長身、長い手足で大きな演技をしたことで、観客を最も引きつけることにも成功した。  上体を大きく後ろにそらして滑るイナバウアーは、荒川選手ならではの持ち技で、観客を魅了した。しかしステップでもスパイラルでもない技なので、直接得点にはならない。  緊迫した舞台や場面で、あえて得点換算にならないムダ、料理ならばレモンやパセリを加えることで、余裕の味付けすらも忘れなかったのだ。  だから、荒川選手の金メダルは獲るべくして、獲ったものだ。 (メディアアトリエ) 長田渚左(おさだ・なぎさ) ノンフィクション作家。桐朋学園大学演劇専攻科卒業後、スポーツライター、キャスターとして活躍。フジテレビ「スーパータイム」では、10年間にわたりスポーツキャスターを務めた。現在は、「週刊ブックレビュー」(NHK-BS)の司会を担当する。著書に『こんな凄い奴がいた』『「北島康介」プロジェクト』(ともに文藝春秋)など多数。